長生炭鉱跡地は、宇部市床波海岸です。海の上に2本のピーヤが見えます。床波漁港付近に「長生炭鉱追悼ひろば」があります。
沖のピーヤは1912年にできたものです。当初はここから石炭の積み出しをしていました。岸のピーヤは1930年に建設されました。岸のピーヤ建設と同時に海底坑道が建設され、2つのピーヤの役割は排気・排水になりました。
当時の長生炭鉱の簡単な図面によると陸上の坑口から斜坑が二本のピーヤを経て真直ぐに約1000メートル延びており、そこから104度曲がって南南西方向に電車坑道と呼ばれていた直線坑道が延びていたとのことです。この電車坑道の奥に石炭の採掘現場がありました。幹線斜坑は沖のピーヤから沖へ20メートル位のところにあったポンプ座あたりが一番低く、そこから上りになって電車坑道の最初の部分にあるササ部屋(坑内現場事務所)に至っており、出水箇所はそのササ部屋100~200メートル沖であったといわれています。
2013年2月、多くの市民の協力と募金で建設された追悼碑です。左側には「強制連行 韓国・朝鮮人犠牲者」右側には「日本人犠牲者」と記しています。韓国にある犠牲者遺族会の「日本人と一緒では頭を下げて追悼ができない」という意見を尊重してこの形になりましたが、2つの碑はピーヤを模しており、2つで1つの碑として建設しました。中央部分には犠牲者全員の名板が入っています。この碑を通して、日本と朝鮮半島の過去の歴史と向き合い、乗り越え未来に向けて良い関係を築いていくという思いが込められています。
名板が日に焼けて文字が見えなくなったため、2021年1月、板から石の名板に変えました。
追悼碑の後ろ側壁面には、「刻む会」の追悼文(右)と韓国・遺族会の追悼文(左)があります。
下側には韓国の若い芸術家が作成した長生炭鉱の水没事故をイメージしたイラストを展示しています。
追悼ひろばの左側には資料展示の壁面があります。「刻む会」の元代表だった故・山口武信氏の絵画、ひろばの説明、死者への手紙や韓国・プチョン市の市民団体から寄贈された絵画などの様々な資料が展示されています。
旧長生炭鉱駅の近くに立っています。1982年4月建立。碑文は以下の通り
この碑文は事故があったことは分かりますが、それ以外の事実については全く分かりません。
この碑の建立前後に「刻む会」の元代表だった故・山口武信氏が宇部地方史研究で長生炭鉱水没事故問題を発表しています。