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ピーヤ内部から発見された穴についての新たな報告

発見されたピーヤ内の横穴についての新たな報告

① 横穴は北から時計回り30度ではなく、120度の方向と訂正。当初は本坑道に向かう連絡通路と説明していましたが、図面赤矢印の方向でさらに沖に向かう旧坑道であると判断します。深い水深と視界がほとんどない無い中での困難な作業です。記者会見での、本坑道へ向かう横穴発見との発表は、その後数度の潜水作業の結果、方位が間違っていることを確認しました。

② 横穴を入口から12m進むと、1m四方の入り口あり、その奥は横4m縦3m奥行き不明の

広い部屋あり、図面の緑部分

③ ポンプ室は旧坑道の最深部分にあり部屋がポンプ室の可能性が高く、ポンプ室ならばポンプ室の扉を開け本坑道へ逃げたという生存者の証言から、本坑道に繋がる連絡通路があります。図面紫部分が旧坑道から本坑道への連絡通路になるが現在未確認。

④30cmの大きさの鉄管が3本ピーヤから部屋へ繋がっています。排水管であり本坑道の最深部にたまる湧水の排水をしていたと考えられます。なので、本坑道の最深部である坑道から310m付近に鉄管はポンプを通して繋がっていると推定されます。

⑤沖のピーヤは坑口から295m、生存者証言はポンプ室は約300m地点、ピーヤより12m沖に部屋らしきものがあるので、ポンプ室とすれば位置関係はあっています。

 

① から⑤の事実は要するに何なのかを説明します。

 一つは、横穴奥の空間の調査・確認が必要になりますので、横穴が直接本坑道へ向かっているという当初の想定よりも遺骨収容へワンクッション置いたことです。

 もう一つはそこがポンプ室ならば扉を開けて本坑道へ行ったという証言通り紫の道があるはず!

生存者の証言との整合性があり、内部の把握がさらに進んでいると言う事です。

 当初の横穴入り口から12m地点から続く80cm四方の横穴を進むという想定よりも、1m四方の扉から広い空間があり、証言によれば人が扉を開けて本坑道へ入れる連絡通路が確実にあるという情報と一致するような環境があれば、無理をしなければ安全性も確保できます。

 少しご遺骨の場所まで時間がかかることもあり得ます。ここは腹をくくって伊左治佳孝さんとともにご遺骨の場所へ一歩一歩進んでいきましょう。6月18日~19日の潜水調査を成功させましょう。前日まで伊左治さんの安全を確保するためのピーヤ内の障害物除去作業は続きます。

 

証言資料集第4集 P12 ③原田里美さんの証言

〇電気保安係として 

1942年2月3日の早朝6時頃、私は坑内の異常出水で呼び出された。事故現場近くに仮設電話を取り付けようと、相棒と50メートルコードを2本持って現場に駆けつけた。出水場所は坑口から約千メートルの書写部屋(ササ部屋という坑内事務所)から、さらに上り坂を百メートル行ったところだった。この箇所は前年(1941年)の11月に牛蒡木固(簡易防水ダムのこと)を組んでいた場所だったが、水没事故があった日は、「大出し日」(千函出し)で、牛蒡木固を開けて石炭を掘った(注1)。 

電話を取り付けた後、ササ部屋でひと休みしていると足元に海水が入ってきた。すぐにポンプ室に行き、五台の予備ポンプ(注2)のスイッチを入れたが焼き切れた。どうすることも出来ないので、本坑道(基幹坑道)に出ようと扉を開けようとしたが、水圧でなかなか開かない。やっと押し開け本坑道に出ると、海水が胸のあたりまできていた。ポンプ室から坑口までおよそ三百メートルの距離があった。 

いつも近くにいる課長や労務係長、保安技術係は既に避難していた(注3)。私は海水を掻き分けようやく斜坑下の坂下(予備炭車保有場所)まで来た。そこで救助の人から「原田さん、奥さんが心配していたよ、早う上がってあげなさい」と励まされた。」 一方、逃げる途中で会った坑内責任者(坑内係長)の江本軍治さんは、坑道の奥に行ったまま戻ってこなかった。 

私はその時のことを、奥さんの江本ハルヱさんに伝えた。 

(注1)坑口から最も遠い沖合いで採炭作業をしていた秋順得(チュ・スンドク)さんと若い同僚二人は事故現場近くに呼ばれ、千本束を運んだ。 

(注2)50馬力と150馬力のポンプがあったが、水没事故の時は全く作動しなかった。ポンプ室は水平坑道の最も低い場所につくられていた。